諸葛亮の上庸経由の対魏戦は何故用いられなかったか。v2

 ・諸葛亮姜維らは険しい山道から攻めている。
  →防御側が有利な地形での戦闘。
   ※諸葛亮は撤退戦無敗故に一番不利といわれる撤退戦では被害が小さい。

 ・劉備死語の蜀の国の軍権を持った人物を並べてみると、諸葛亮→蒋[王宛](ショウエン)→費[示韋](ヒイ)→姜維という順になる。
  ※費[示韋]は北伐を実行していない。
  →諸葛亮の北伐は五度攻めて第一次は天水など隴右を一度奪うが街亭の敗北のため撤退、第三次?は武都・陰平を奪う などの小さな勝利がある。

 ・演技で諸葛亮は第一次北伐で隴右の地を奪った後、孟達の反乱による魏を両面より攻める策を用いている。
 ・三国志正史(以降は正しく全て三国志と用いる)では第一次北伐の一年前に孟達司馬懿に殺されている。
 ・基本的に諸葛亮の隆中対策(荊、益の両面より魏領に攻め込むというもの)からは反して益州の軍による単独の北伐をしている。
  →呉の戦争に合わせた、乗じた者はあったはず。 
  ※諸葛亮の隆中対策では蜀漢荊州を所有しているのが前提

夷陵の大敗北から回復をしきれていないが、226年の段階、南征終了時の段階で北伐するとどうなるだろうか。
  ※孟達の反乱は同年。
 ・この場合、孟達の軍を先鋒として加え荊州より攻めあげるという作戦が生まれる。
  ※荊州刺史は司馬懿
 ・蒋[王宛]はこの作戦を企画したものの(劉禅の反対により実行はされていない。そのため姜維に北を攻めさせる。)実行はしていない。
  ※荊州刺史は郭淮(伯済/太原郡陽曲県/?-255.1/貞侯)
諸葛亮が第一次北伐を行う以前の段階ではどうだろうか。
 ・劉備軍(荊州までの軍)は元々中原の騎馬による平野の戦いを得意とする。
 ・趙雲涼州出身者である馬超馬岱などがおり騎馬指揮では問題ない。
 ・攻めにくい山々も今度は攻めてがら空きの蜀領を少数の兵で守るのに役に立つ。
  ※諸葛亮は徐州出身だが、荊州北部に長期滞在。
姜維、蒋[王宛]が同様の作戦をとるとどうなるか。
 ・馬岱は『235年、馬岱が魏に進行、牛金により撃退される』との記事が晋書宣帝記あるためその時点までは生きている。
  →馬岱はその後出てこないため、その後の北伐には参加していないと思われる。
 ・姜維は雍州出身者のため、雍州の地形を理解していると思われる。
  →地の利がある
   ※羌族の力を借りた事もある

 諸葛亮の時ならまだしも、蒋[王宛]、姜維が用いる作戦ではない。
 もし孟達が生きていたら、用いられていたかもしれない。
 ※資料
 年表:http://www2.odn.ne.jp/~hag50290/jinnbutu/sangokusi/nenpyou.html
 蒋[王宛]:http://mujin.parfait.ne.jp/mujins/sanguo/shu14.html
 馬岱の記事http://souhyou.hp.infoseek.co.jp/batai.htm 怪しいと言えば怪しいが