社会の中にいるということ

近くにとても美味しい中華料理屋さんがいる。
幾つかメニューがあるのだけど、ぼくはいつも、特別定食という950円のメニューを選ぶ。
そうすると、プリプリのエビと火が入るか生のままかの境界線上に立ったエビの、エビとイカのチリソース煮が食べられたりする。またある時は「肉ってうまい。肉って最高」な黒豚の角煮が食べられている。

お昼は近所の弁当屋で食べる。おばあちゃんが三人でやっていて、(メニューが揚げ物に偏っているのが残念だが)ホロホロの白身が揚げたてののり弁が320円で食べられる。

どちらもなかなか手が混んでいて、ぼくはその価格が適正ではないから(もちろん安すぎると思っている)何度も何度も通っている。

どちらにも共通しているのはここが茨城県取手市であることと、高齢者がもっと言えば年金受給者が作っているということ。

先に挙げた中華屋さんの店主に聞いたのだけど、冒頭で僕が食べた料理はなかなかに原材料が高くて、都内で出すんだったら何倍の値段も付けて出すと言っていた。

都会じゃないから価格が先に来なきゃいけない。年金ぐらしだから、生活のために生きるというのが後にできる。冒頭に挙げているお弁当屋さんも同じだろう。おばあちゃん三人でやっていているから何十年前と同じ値段で続けられているのだろう。

ぼくは自分に返ってこない年金を払っているのは好きじゃないけれど、そう考えると、僕が年金を払って、お年寄りにゆとりがある生活をしてもらうのも悪くはいあのかもしれない。社会というフレームの中で技術がある人にゆとりを与えると、福祉が回り回って僕にも帰ってくる。

素晴らしい!


もしそうであるように、社会福祉が循環する社会が生きるようになるのであれば、年金をもらうことに対しての概念が変わるように啓蒙すればいい。年金をもらう事は権利だけじゃない、そのゆとりを社会還元する義務がある。そう思えるようになれればいい。

これは単純に概念の問題で、それを法や社会で縛るべきではない。だけどあなたの年金はパチンコを打つためじゃなく、社会の中で還元してもらうために支給している。そう思えるようにみんながなれれば意外と年金問題は解決するんじゃないかな。だって最大の根底は不公平感なんだから。



written by iHatenaSync