諸葛亮の上庸経由の対魏戦は何故用いられなかったか。

 朝の思いつきをそのまま脳みその資料で和えた物なのできちんと調べていない。
 諸葛亮姜維らはわざわざ厳しい山道から攻めている。辺り一面が要害の様な地形なので兵力で勝る魏軍は動かなければ勝てる、ということになる。
もちろん諸葛亮の撤退戦の指揮力は異常に高いので、兵の損耗はないが、やればやるだけ衰えるという、姜維流滅亡スタイルが確立されてしまうことになる。

 でだ、劉備死語の蜀の国の軍権を持った人物を並べてみると、諸葛亮→蒋[王宛](ショウエン)→費[示韋](ヒイ)→姜維という順になる。この内 費[示韋] は北伐をしていないのでこの話からは除外する。
 諸葛亮の北伐は五度攻めて小さな勝利はあったものの、目的の長安陥落には至らず。
 姜維に至っては演技でがんばって勝たせてもらっているが負け続け。

 でだ演技にて諸葛亮は第一次北伐で隴の地を奪った後、孟達の反乱による魏を両面より攻める策を用いている。
 で、史実でも・・・と行きたいところだが、第一次北伐の一年前に孟達司馬懿に殺されている。
 せいぜい呉との同盟があった程度で基本的に諸葛亮は隆中対策でのこと(荊、益の両面より魏領に攻め込むというもの)から反して益州の軍による単独の北伐をしている。

 もちろん、蜀の地の人口が魏に比べ遙かに少ないということもあるのだが、226年の段階、恐らくまだ南征の頃であるが、孟達の軍を先鋒として加え荊州より攻めあげるという作戦があったはずだ。
 蒋[王宛]はこの作戦を企画したものの(劉禅の反対により実行はされていない。そのため姜維に北を攻めさせる。)実行はしていない。
 しかし諸葛亮が第一次北伐を行う以前の段階ではどうだろうか。騎馬による平野の戦いを得意とするかつての劉備軍の、趙雲涼州出身者である馬超馬岱などがおり騎馬指揮では問題ない。そして攻めにくい山々も今度は攻めてがら空きの蜀領を少数の兵で守るのに役に立つ。

 ただ、第一次北伐ではぶつからなかった司馬懿(演技では司馬懿だが、三国志では司馬懿だが 張[合β](チョウコウ)が街亭での指揮である)が荊州宛城に駐屯しているため食い止められそうな気もせんではないが。

 孟達が北伐を待たずに寝返ったことが、この作戦を駄目にしたのかもしれない。


 ※資料
 年表:http://www2.odn.ne.jp/~hag50290/jinnbutu/sangokusi/nenpyou.html
 蒋[王宛]:http://mujin.parfait.ne.jp/mujins/sanguo/shu14.html