([食べ物]八宝菜。)と書こうとしたときに現れた前段。

 誰が見てるか知らないけれど誰のためにも書いていません。
 誰のためにも書いていない文章として日記のような類があります。
 日記とブログを比するとブログは公共の場にかかれている。
 「故に、誰のためにも書いていないということはない、自己顕示が日記からブログに移行させている。」
 という意見を一般的にいただきます。
 しかしながら誰にもアクセスされないインターネット上の空間と自分の部屋置いてある日記とどちらがアクセスされにくいでしょうか。
 自分の部屋の日記には相手が良識を持っているという前提条件が有ります。人の日記は勝手に覗かないというあなたも持っているそれです。
 しかし、そんな物はセキュリティといえるのでしょうか。むしろ、艶やかなデザインに、特徴的な形態で、人の好奇心を誘う、個人的な情報。そういった物はハッキングされてしかるべき物でしょう。
 SNSには繋がりという特徴があります。それは自己顕示欲です。しかし通常、webページ閲覧者で、或る他人の日記を見ようという人は少ないはずです。なぜならば、ネットワーク上からこのページにアクセスできるとき、情報を得るために多くの人は閲覧し、くだらない無駄な文章を読む余裕など持っていないからです。そういうわけでこういったページが閲覧されることはまずないことでしょう。
 そして、もちろんこの文章は誰にも見られていないはずです。

 今日八宝菜造りました。(立派な建造物みたいだね。今日僕が土木の仕事をして、一日で何か仮設の中華料理店を建設したかのように見えるよ。だからきっとこう訂正するんだろう創りました、と。おっとこれでは斬新なアイデアに満ちあふれた八宝菜を創ったことになる。どんな八宝菜かと聞かれれば答えに困る。尋ねた人は、きっと林檎と蜂蜜で作った八宝菜とか、レッドペプシで作った八宝菜なんかを期待するんだ。そんな度胸なんて全くない僕にはこんな訂正をしちゃあいけない。正しく作ると訂正させてもらうよ。)
 八宝菜の具には、何を入れればいいのだろう。
 大本命はチンゲンサイ。彼なしでは八宝菜は成立するのは難しい。しかしその彼の故障時の出場機会を待っているのが白菜。冬の野菜の帝王のような彼が控えに入っているのは奇妙だが料理とはそういう物。